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<<   作成日時 : 2013/08/23 20:33   >>

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ファッションの伊勢丹史
  1950年代〜70年代  デパートが果たした既製服産業への関わり

                                                           島田 茂
はじめに
 よくお客さまから「伊勢丹はなぜいつも混んでいるのですか」と聞かれることがある。しかし創業以来、何回かの困難に遭遇し危機意識を持ち飢餓感に接した体験が語り継がれている。それゆえに常に顧客の満足を得るチャレンジを途切れることなく継続している結果が今日の姿である。総てに後発だった伊勢丹が先発の店に立ち向かうには何が必要だったのか。「どうすれば伊勢丹にご来店いただけるのか」我々は話題性のある空間や商品そしてお客様の期待以上の販売サービスの提供する事に最大の関心をはらってきた。本論文ではその中で1960年代に既製服の工業化を果たした伊勢丹の役割を論理的に解明したいと思う。以下その一部を紹介する。
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「なぜ伊勢丹はファッションを選択したのか」
 伊勢丹は明治19年、神田で呉服店を創業、三越、高島屋、大丸、松坂屋に遅れて創業した。昭和8年、現在の新宿で百貨店を開店したが百貨店への転換も他店に遅れた、それに加えて戦後、昭和28年までの8年間米軍に建物を接収され、使用出来る売り場は地階、1階、2階だけで全館営業も後発となった。先発組に如何に追いつき、追い越すかそれには何をもって独自性を出して勝負するか、決断の時であった。
 昭和28年、待ちに待った店舗が米軍より3階以上も返還され地階から7階まで全館返還された。満を持して決断した。2階に大きな子供服売り場を作った。
この時期、他店は呉服が主力であった、社会が洋風化する以前であった。なぜ子供服なのだろうか、それは将来有望な人口の最も多い顧客となる団塊の世代が丁度、7~8歳になっていた。また、新宿という街が戦後、郊外へ移り住む人々の要となってJR,私鉄の乗り換え駅であった。この年代層が中学生になった昭和31年他店に品揃えのない「ティーンエイジャーショップ」をオープン、そして高校、短大生になるときには「カジュアルショップ」「ジュニア」をオープンしていった。
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伊勢丹ならではのタータンチェックの袋の誕生は、昭和35年に洋服も包装紙に包んだ時代にティーンエイジャーショップ用に開発した。「紙袋文化」の始まりである。
チェックは当時ベストセラーになったスカート柄(英国の紋章・エイシェント)から選定し、丈夫な紙質と鮮明な色が出るように裏が黄色になっている。今日まで半世紀、国内外の店で使用されて「伊勢丹=タータン」のイメージが定着した。このように新宿と云う街と団塊の世代に絞り込んでお客さんの求めるファッションを常に先行して提案してきた。
 ファッションを選択したもう一つの理由は昭和26年日本の外貨が不足している時代、後に伊勢丹の3代目社長になる小菅利雄が3ヶ月の欧米視察のチャンスを得たことにある。彼は米国で全米小売業協会が発刊した「バイヤーズ・マニュアル」を入手した。帰国後翻訳し、その中からエキスを取り出して誰にでもわかり易い「マーチャンダイジング・ノート」を作成した。これを全員が活用することによって伊勢丹は旧い習慣が残る呉服系百貨店体質からいち早く近代的組織で動く百貨店へ転換を図った。「マーチャンダイジング」とは「整理と分類」である、ファッションとは「科学と感性の結晶である、とりわけ色とサイズである」の実践を続け、すべてに顧客起点の「顧客第一」がお客様の信頼に繋がっていったのである。

「マーチャンダイジングの伊勢丹はいかにして形づくられたのか?」「マーチャンダイジング・ノート」は各人の判断基準となって活用され実行された。
このノートは完全な品揃えと商品分類の2つに分けられている。たとえばノートの右側商品分類では、対象別は1 性別 2年齢別 3グループ別 となっているが年齢分類では1ベビー 2子供 3ティーン 4ヤング 5ミッシーとなる。伊勢丹のマーチャンダイジングとは「商品が企画され、発注、納品、販売、お客様の手に渡り売り切るまでの計画・実行・反省・対策のすべてをいう」。お客様が欲しいものを、欲しい時に、欲しい量だけ、欲しい価格で御求め易い状態で品揃えする事である。
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「新しい既製服の誕生その時サイズがうまれた」
 戦後、間もなく、洋服は生地を買って作るオーダー、次にイージーオーダーの時代が続いた。昭和40年以前、既製服はメーカーが限られていてサイズも種類も少なかった。お客様が欲しい時に、欲しいものが、欲しいサイズと色で、欲しい価格の既製服を求めていた。伊勢丹は樫山、三陽商会、東京スタイル、レナウンのメーカーが参入以前にこのニーズに応えるよう昭和32年「服飾研究室」(後の伊勢丹研究所)を新設してサイズと色、素材の開発に取り組みにスタートした。その後メーカーも賛同し効力を得るのである。
 標準統一サイズを設定するためのデータは昭和28年からイージーの注文表を基にして分析、服飾系大学の協力を得て作っていった。この情報をメーカーへ伝え、また高島屋、西武の合意を得て、3者で昭和39年11月「婦人服統一サイズ」を発表した。その時現在のサイズである5・7・9・11・13・15号が誕生した。
その後全国に既製服が広まりメーカーは昭和50年頃にアパレルという名称を使うようになった。昭和30年代には既製服の工業化に必要なパタンナー(型紙を作る人)が不足していた。研究所は技術者を養成するためにアメリカへ研修に行かせた。またメーカーにも同意を求めて技術者を増やしていった。縫製技術も同時に研修に出かけ向上を図った。サイズは基本パターンから大きくまた小さくグレイディングの技術も発達し昭和48年、伊勢丹は「男の新館」をオープンと同時に婦人服を拡大して新しい既製服と大きいサイズショップを充実させた。この時から「ハンガー納品システム」を導入した。これまでのダンボールへ洋服を畳んで納品していた既製服の縫製から店頭まで、一つのハンガーで移動するシステムを構築ししわのない洋服をお客様へ渡すことが出来るようになった。
 まさにこの革新の時代昭和37年に私は入社し、ファッションビジネスの道を永く歩むようになった。昭和44年アメリカ研修の機会を得て「マーチャンダイジングメソッド」を学び帰国した秋に玉川高島屋ショッピングセンターがオープンして既製服時代が本格化するようになっていったのである。この様にして世界一を目指すファッションの伊勢丹が発展してきた歴史がある。

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