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<<   作成日時 : 2014/03/14 15:27   >>

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ホームメイド
1950年代、家族の着るものは家庭で作るホームメイドの時代、ミシンは一家に1台、生地を購入して作るための技術を身につけるための学校であった。編み機の家庭への参入は後日のことである。主婦は家庭の衣料を作るために1日数時間をとられていた。
1950年代、お年玉つき年賀ハガキが初めて発売されたがその景品がなんと1等高級ミシン、2等が純毛洋服地1着分であった、いかにミシンや純毛服地に国民の関心が高かったかがうかがわれる。

婦人オーダーメード
 百貨店の特定顧客は服地に隣接するオーダーショップで仕立ての注文をした。百貨店は1960年代半ばまで、婦人服と婦人のオーダーが婦人服フロアーの70%を占める時代が続いていた。縫製工場は各デザイナーのアトリエで行うケースが一般的であった。

1940年代後半〜50年代 戦後の復興期は服地と洋裁学校ブーム
 戦後間もない日本は繊維不足と統制経済が続き、すべてに物不足で自衛のために洋裁が盛んになり、一家に1台のミシンが入るようになると洋裁学校が増加した。戦後10年間の洋裁学校の増加状況は下記の表のように増えていった。

   年代       洋裁学校数         学生数

  1947年        400             4,500
  1949年       2,000            200,000
1955年       2,700            500,000

戦後の洋裁学校増加数             出所: 既製服工業連誌1980年

1960年代前半までの、3階・生地売り場は広かった。春夏がコットン、秋服はウールが主力で、シルク、合繊も扱っていた。生地はお客様の必要な分だけ反物から切り売りと着分で販売した。付属に必要なボタン、ファスナー、芯地、糸、針、物差し、ハサミ、チャコなどと共に各種の紙型を揃えていた。
 仕入先は得意な分野ごとに総合卸の吉忠、市田、塚本、レナウンとウールは丸増、森伍、
尾山、綿は立川、シルクは亀井、レースは野村、輸入はストック&ゼノック、コロネットなどと取引を行った。
 私の経験では1960年代半ばでは、服地の仕入れは原則買取、取引先を訪ねると現物を挟んで価格交渉が始まる。指値(さしね)(卸値)は五玉の大型ソロバンで示される。そして色々な条件交渉の後、合意に達し出荷価格が決まる。いわゆる下代商売である。そのためには相当な商品知識と顧客情報、日々変わる糸相場などと売上げ、利益、在庫予算持って出かけなければならなかった。
 上司からの助言は「仕入先で値切ってばかりいると取引先に嫌われる、正当な評価も必要である。極端だが値切るときは5玉(上)を、時には相手を褒めて1っ玉(下)を上げて使い分けろ」であった。
当時、三越の「土井さん」(信州大学繊維学部出身と聞いていた)という有名な仕入れ係は、我々より後から仕入れに来ても取引先の皆さんは全員で応対する実力者で反物の山ごと発注していた記憶がある。それほど服地とオーダーシェアーの高い百貨店であったと思われる。

                                       島田 茂

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